2022年9月25日(日)
『あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。』マタイの福音書5章41節
主の山上の説教の教えを要約すれば、主が私たちの内側に超自然的なみわざをしてくださらないかぎり、主がお求めになるような人間関係を成り立たせることは不可能だ、ということである。
暴政や権利の侵害を受けても、弟子であるなら、恨みがましい思いを少しでも持ってはならない、と主は要求される。
どれほどの熱心があろうと、イエス・キリストが働き人に課せられたこのような重圧は耐えられるものではない。
ただ一つだけそれを可能にしてくれるのは、主との個人的な関係である。
私がここにいるのは、神が望まれるところに遣わされるため、という一つの目的だけを残して、徹底的に心の「大掃除」をしていただいた後の、主と私の関係である。
それ以外のすべてが曖昧であったとしても、イエス・キリストとの個人的な関係については、決してそうであってはならない。
山上の説教は理想を述べたものではない。
イエス・キリストが私の性質を変え、ご自身の性質を私の中に組み込んでくださるときに起こることを述べたものである。
山上の説教を実行できるのは、イエス・キリスト以外にはおられない。
もし私たちがイエスの弟子になろうというのであれば、超自然的な方法によらなければならない。
何が何でも弟子になるのだと思っているかぎり、私たちは弟子ではないと考えてよい。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選びました」。
神の恵みは、このようにして始まるのである。
選ばれたというその制約から逃げ出すことはできない。
従わないという選択肢はあるにせよ、選びは自分で生み出すことのできないものである。
神に引き寄せられるのは、神の超自然的な恵みのわざであるが、それがいつどこから始まったか、さかのぼることは不可能である。
主は人を超自然的な方法で弟子に造り変えられる。
主は、生来の能力を全く当てにはなさらない。
神は、私たちが簡単にできることを求められない。
お求めになるのは、神の恵みによらなければ満足に行うことのできないことだけである。
私たちが十字架を負わなければならないのは、まさにそこなのである。
God Bless You!!
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