2022年9月23日(金)

2022年9月23日(金)


『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。』ルカの福音書18章31節


普通に生きていくのであれば、私たちの野心は自分の成長とともに変わっていく。
ところがクリスチャン生活の場合には、最初の時点ですでに到達点が示され、最初も最後も同じである。

すなわち私たちの主ご自身が到達点なのである。

私たちはキリストとともに出発し、キリストとともに到達する。
それはキリストの満ち満ちた身丈に達するまでであって、自分が理想とするクリスチャン生活に達するまでということではない。

宣教する者の使命は神のみこころを遂行することであって、役立つ人材になるとか、失われた人々を獲得することではない。

もちろん、役立つことであろうし、失われた人々を獲得もするであろう。
しかし、それが目標なのではなく、主のみこころを行うことが目標なのである。

主のご生涯においてエルサレムとは、十字架上で御父のみこころの頂点に達するための場所であった。
そして私たちもイエスとともにエルサレムに行くのでなければ、主との交わりは持てないことになる。

エルサレムに行くことを主に思いとどまらせるものは何一つなかった。
かつてご自分が迫害された村々を急いで通リ抜けることもなければ、祝福を受けた場所に長居をすることもなかった。

感謝であろうが忘恩であろうが、それによってエルサレムに上るという主のご目的が、ごくわずかでも逸れることはなかったのである。

「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません」とあるとおり、自分の「エルサレム」に上る途上で、私たちにも同じことが起きる。

私たちを通して明確な神のわざがなされ、人々は祝福され、感謝を表してくれる人が一人、二人いても、そのほかの人々は恩をあだで返すことであろう。
しかし、どんなことがあっても、私たちはエルサレムへ向かう道から逸れてはならない。

「そこで彼らはイエスを十字架につけた」。

これが、主がエルサレムにたどり着いた後、起きたことである。
そしてその出来事が私たちにとって救いの入り口になったのである。

聖徒の生涯は十字架で終わるのではなく、主の恵みにより、栄光で終わるのである。
その時が来るまでは、「私もエルサレムに上ろう」が私たちの合言葉である。

God Bless You!!


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