2022年9月2日(金)

2022年9月2日(金)


『わたしを信じる者は、……その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』ヨハネの福音書7章38節


「わたしを信じる者は神の祝福のすべてを経験する」と、イエスは言われたわけではない。
「わたしを信じる者は、自分が受けたもののすべてが、自然に外へ流れ出る」と言われたのである。

主の教えは、常に自己実現と正反対であった。
主の目的は、人の能力を伸ばすことではなく、人をご自身とそっくりの者にすることにあった。
しかも、神の御子の特徴は、ご自身を費やすことにある。

もし私たちがイエスを信じているなら、本当に価値のあるものとは、自分が得るものではなく、自分を通してイエスが注ぎ出してくださるものである。

神は私たちを、はち切れんばかりの美しいぶどうにしようとしておられるのではなく、私たちを押し潰して甘い果汁が出るようにしておられるのである。

霊的な観点からすれば、私たちの人生は成功を基準にして評価されることはなく、神が私たちを通して何を注がれたか、ということによってのみ評価される。

私たちにはそういう評価をすることが全くできない。

ベタニアのマリアが高価な香油が入った壺を割り、イエスの頭に注いだとき、マリアを除いてはだれも、それが特別な時であると分かっていなかった。
むしろ、それは無駄遣いだ、と弟子たちが非難するほどだった。

しかしイエスはマリアのこのような並外れた献身に称賛を惜しまず、「世界中どこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」と言われた。

主は、節約一辺倒ではなかったマリアのように、主にすべてをお任せする姿勢を見ると、この上なく喜んでくださるのである。

神は御子のいのちを注ぎ出された。
それは「御子によって世が救われるため」である。

私たちも主のために自分の人生を注ぎ出す心の準備があるだろうか。
「わたしを信じる者は、……その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

その結果、数えきれない人々の人生が常に新しくされる。
自分という壺を割り、自分の満足を追い求めず、主の前に人生を注ぎ出すのは今である。

わたしのためにそうするのはだれか、と主は今もなお問いかけておられる。

God Bless You!!


a:12 t:1 y:0