2022年9月17日(土)
『あなたがたが経験した誘惑はみな、人の知らないものではありません。』コリント人への手紙第一10章13節(英訳)
「誘惑」[「試練」とも訳せる。以下同じ]ということばには悪い意味がつきまとうようになった。
しかし、私たちはとかく間違った使い方をしている。
誘惑それ自体は罪ではない。
人間である以上、いつかは直面せざるを得ないものなのである。
誘惑を受けることすらないとしたら、私たちは軽蔑にも値しないほど、すでに卑しい存在になり果てていることになる。
ところが、私たちの多くは、本来苦しまなくてもいい誘惑に苦しむ。
それは、神が、一層高い段階に私たちを引き上げようとされるのを拒んだからである。
そこにはそこの誘惑または試練が待っている。
外からどのような誘惑を受けるかは、人の内なる性質、つまりその人の性格の中によって決まる。
誘惑は誘惑される人の性質に適合しており、その性質に潜む可能性を暴くものである。
だれの心にも、独自の誘惑の「受け皿」がある。
そして、誘惑はその人の支配的な性質めがけてやって来るのである。
誘惑とは、私が目指す最高の目標を実現するための近道がある、とほのめかすものである。
私が悪だと分かっている方向に私を導くことはない。
むしろ、私が良いと思う方向へ導くのである。
誘惑によって、一時的に混乱が起き、何が正しく、何が間違っているか分からなくなる。
誘惑に屈すれば、私は欲望を神格化したことになり、それまでその罪を犯さないですんだのは、ただ私が小心者であったことの証拠にすぎないことになる。
誘惑または試練とは避けられるものではない。
かえって、円熟した生き方になくてはならないものである。
自分が受けている誘惑(試練)は他のだれも経験したことのないものだ、などと思ってはならない。
あなたが通過している経験は人間であるならだれしもが受けてきたものであって、一人も経験したことのないものではない。
神は誘惑(試練)に遭わないように救ってはくださらない。
誘惑(試練)のただ中にあって私たちを助けてくださるのである。
God Bless You!!
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