2022年9月16日(金)

2022年9月16日(金)


『あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。』マタイの福音書6章6節


信仰において何よりも大切なのは、自分の目を、人にではなく、神に向け続けることである。

「祈りの人」として人に知られたいという願望が祈る動機であってはならない。
祈っているとはだれにも気づかれない「内なる部屋」に入り、扉を閉め、隠れたところで神に語りかけよ。

天の御父を知るという以外の動機があってはいけない。
隠れた祈りにあてる時間を明確に決めないで弟子として生活することは不可能である。

「祈るとき……同じことばをただ繰り返してはいけません」とあるように、熱心に祈れば、神が祈りを聞いてくださるのではない。
贖いという土台があるので聞いてくださるのである。

神が私たちの熱心さに感心されることは決してない。

祈りは、単に神から何かをいただくことではない。
それは祈りの初歩の初歩である。

祈りとは、神との隔てなき交わりと一体性を経験するためのものである。

新生により神の御子が私たちの中に形造られているなら、御子は私たちの常識の及ばないところを突き進んでくださり、私たちが祈り求めていることに対する私たちの態度まで変えてくださる。

「だれでも、求める者は受け」とある。

私たちは、敬虔そうに無意味なことばを並べて祈るが、自分の意志は置き去りのままである。
それなのに「神からの答えはなかった」と言うのである。

しかし、本当のことを言えば、私たちは何も求めていなかったのである。

「何でも望む(will)ものを求めなさい」とイエスは言われたが、求めるとは、そこに意志(will)が関わらなければならない、ということである。

祈りについて話すとき、イエスはいつも、堂々と、また子どもにも分かるほど単純なことばで語られた。
すると、私たちは批判的な心で「なるほど。しかし……」と応答するが、それでもイエスは「求めよ」と言われるのである。

ただ、神に求めるべきものが、イエス・キリストが啓示された神にふさわしくなければならないことを忘れてはならない。

God Bless You!!


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