2022年9月10日(土)

2022年9月10日(土)


『ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。』ヨハネの福音書1章48節


私たちは、もし大きな危機が来れば、それによって自分が戦いにふさわしくされるのではないか、と思っている。
しかし、危機によって私たちが強くなることはない。
むしろありのままの自分が明らかになるだけである。

「神から戦闘に召集されたら、活躍するチャンスだ」と私たちは言う。
しかし、神の訓練場で経験を積んだことのない兵士が、活躍できるわけがない。

神があなたのすぐそばに置かれた務めをこなしていなければ、危機が来ても、あなたは適格ではなく不適格であることが明白になるだけである。

危機とは常に、その人の地金を明らかにするものなのである。

霊的に自分を整えようとする際、ひとりで神の前に礼拝することほど大切なことはない。
ナタナエルのように、もはや自分の「いちじくの木の下」で(わが家で安らかに、の意)過ごすことのできない時が来る。

何もかも明るみに出され、もしそれまで毎日、機会のあるごとに礼拝をしていなければ、自分が無用の存在であることに気づくことになる。

もし神との個人的な交わりにおいて礼拝が正しく行われていれば、神があなたを解き放たれても、あなたの準備は完了している。
あなたが完全に整えられるのは、神にしか見えない生活においてなのである。

それゆえに危機による緊張の中でも、あなたには神からの信頼がある。

「今の状況では、聖別された生活を求められても無理だ。
祈る時間もなければ、聖書を読む時間もない。
それに私の戦いはまだ始まっていない。
しかし出番が来たら、しっかりやるつもりだ」とあなたは言う。

残念ながら、それは無理である。
毎日、機会があるたびに神を礼拝していなければ、いざ神の働きにあずかっても、あなたは役立つことがないばかりか、周囲の人々の足を引っ張るだけである。

宣教のための武器が置かれている神の訓練場とは、一人ひとりの聖徒による、ひそやかで個人的な礼拝生活のことなのである。

God Bless You!!


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