2022年8月5日(金)

2022年8月5日(金)


『人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。……弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。』ルカの福音書18章31節、34節


神はイエス・キリストを、容赦のない悲惨な目に追いやられた。

イエス・キリストは、ご自分が殺されるところを弟子たちにお見せになった。
主は、弟子の一人ひとりを、悲しみで心が張り裂ける状態にまで至らせた。

こうしてみると、イエス・キリストのご生涯は、神の視点から見るのでないかぎり、まさに完全な失敗でしかない。
しかし、人の目からは失敗に見えたものが、神の目には途方もない大勝利だったのである。

神のご目的は、人が目的とするものと決して同じではないからである。

私たちの人生においても、神から困惑するような召しを受けることがある。
神からの召しといっても、明瞭に述べられるものではなく、暗黙の召しである。

神の召しは潮騒と似ている。
海に心が向いている人にしか、その音は聞こえない。

神の召しといっても、何への召しなのか、明確に述べられるわけではない。
神の召しとは、神のご目的のために、神との「僚友関係」に入ることだからである。

そのための「審査」とは、神にはご自身が何を求めているか分かっておられる、と信じられるかどうか、ということである。

あらゆる出来事は、何一つ偶然に起きてはいない。
すべて、神が定められたところによっている。
神はそのご目的とされることを、実現しつつあるのである。

もし私たちが神との交わりの中におり、神は私たちをご自身の目的に関わらせようとしておられると気づいたら、もはや神のご目的がどこにあるのかと、頭を悩ます必要はない。

クリスチャン生活は続けていくにしたがって、事はますます単純化されていく。
「なぜ神は、このことが、またはあのことが起こるのを許されたのか」と言いたい気持ちが次第になくなっていくからである。

「我々がどう下手をしたとしても、うまく収めてくださる神様がいる」のである。
(シェークスピア『ハムレット』より)

クリスチャンとは、自分の分別や才覚ではなく、神の英知と知恵に信頼する人のことである。
しかし、私たちに自分の目的とすることが別にあれば、神の子どもの特性であるべき素直さや、安心と余裕も吹き飛んでしまう。

God Bless You!!


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