2022年8月31日(水)

2022年8月31日(水)


『わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。』ヨハネの福音書15章11節


イエスの喜びとはどのようなものだったのか。

喜びと幸せとを混同してはならない。
それどころか、幸せということばをイエス・キリストに関連づけるのは不謹慎ですらある。

イエスの喜びとは、御父に自らを完全にゆだねることであり、御父に対しご自分を犠牲にすることであった。
それはすなわち、ご自分を遣わされた御父のご目的を実行することだった。

「ご自身の前に置かれた喜びのために、十字架を忍び」とある喜び、「わが神よ、私はあなたのみこころを行うことを喜びとします」の喜びがそれである。

イエスは私たちの喜びが満ちていき、ついにはご自身の喜びと同じになるようにと祈られた。
私はイエス・キリストにその喜びがどういうものであるか、教えていただいただろうか。

満ち足りてなおあふれるいのちとは、肉体の健康や、外面的な出来事の中にはない。
神の事業が成功することの中にもない。
それは神を完全に理解し、イエスと同じように神と交わることの中にある。

この喜びを妨げる原因の第一は、自分の今の状況に対する隠れた不満である。
イエスは、「この世の思い煩い……が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません」と言われた。

そして気がついたときには、気苦労にがんじがらめになっているのである。

神が私たちにしてくださったことは、全体から見れば、まだ序の口である。
やがては私たちが神の証人となり、イエスを宣べ伝えることを望んでおられるのだ。

神と正しい関係を持ち、そこに自分の喜びを見出せ。
そうすれば生ける水があなたから流れ出る。

イエスが「生ける水」を注ぎ出すための泉になるのは、あなたである。
自分にこだわり、自分をよく見せようとするのはやめて、キリストとともに神のうちに隠されているいのちに従って生きよ。

神と正しい関係にある人の生き方は、どこにいようと、息をするのと同じくらい無理がない。
今まであなたに最大の祝福をもたらした人の人生とは、自分が祝福になったとは全く気づいていない人の人生だったはずである。

God Bless You!!


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