2022年8月28日(日)
『弟子の一人がイエスに言った。「主よ。……私たちにも祈りを教えてください。」』ルカの福音書11章1節
祈りは、生まれながらの人にとって生活の一部になってはいない。
祈らなければその人は損失を被る、と言われるが、はたしてそうだろうか。
損失を被るのは、むしろその人のうちにある神の御子のいのちであり、そのいのちは食物ではなく祈りによって養われるのである。
人は新しく生まれると神の御子のいのちを宿すことになるが、そのいのちを枯渇させるのも、養うのもその人次第である。
祈りは、私たちの内なるいのちを養う手段そのものである。
祈りに関して私たちがふつう思うようなことは新約聖書のどこにも書かれていない。
私たちは祈りを、何かを手に入れるための手段とみなすが、聖書によれば、祈りは私たちが神ご自身を知ることを目的とするものなのである。
「求めなさい。そうすれば受けます」と主は言われた。
私たちは神に不平をこぼしたり、弁解したり、冷淡であったりはしても、実際に神に求めることはないに等しい。
しかし、子どもの厚かましいほどの求め方ときたら、ほれぼれするほどである。
主は言われた。
「子どもたちのようにならなければ」と。
求めよ。
そうすれば神は働いてくださる。
その機会と余地をイエス・キリストに提供せよ。
問題は、万策尽きるまで、だれ一人そうしないことにある。
しかし切羽詰まれば、祈ることは臆病なことではないどころか、神ご自身の実在にふれる唯一の方法であることが分かる。
神の前にありのままの自分であれ。
そして、解決の目処が全く立たなくなった問題を神に申し上げよ。
しかし、自分で何とかできると考えているうちは、神に何かを求めても無駄である。
「祈りは事態を変える」とよく言われるが、「祈りは私を変え、その私が事態を変える」というほうが真実に近い。
贖いを土台にしたとき、祈りによって人がものを見る見方が変わるように、神は物事を定められたのである。
祈りとは、物事の外面を変えることではなく、人の内なる性質に奇跡を起こすことなのである。
God Bless You!!
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