2022年8月26日(金)

2022年8月26日(金)


『わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。」ヨハネの福音書14章27節


ときには知らないでいたことが幸いして、私たちが平安でいられる場合がある。
ところが現実の厳しさに目覚めると、イエスから平安を受けないかぎり、心に真の平安を得ることは不可能である。

主が「平安」を口にされれば、そこに平安が生まれる。
主のみことばは常に「霊であり、またいのち」だからである。

イエスが語っておられる平安を私は受けたことがあるだろうか。
「わたしの平安を与えます」と言われた平安は、主の御顔を仰ぎ見て、主が全く動じておられないことを知ることによってもたらされる平安である。

あなたは今、苦しく、不安な思いでいっぱいだろうか。
神の摂理のもとに許されたこととはいえ、押し寄せる荒波に恐れと動揺を感じているか。

自分が信じ、信頼してきたことを、一つひとつ見直したにもかかわらず、平安、喜び、慰めの泉がどこにもなく、すべてが無駄で空しく思えているだろうか。

もしそうであるなら、目を上げて、主イエスから揺るぎない平安をいただくのだ。
その主の平安があなたに反映するなら、神とあなたの関係が正常である証拠である。
あなたが自分の意志で、神に目を向けたからである。

神との関係が正しくなければ、自分のことにしか目がいかない。
イエス・キリストの御顔が見えなくなる原因をそのままにしておけば、心が騒ぐか、または偽りの安心感を抱くかのどちらかでしかない。

問題が差し迫るなかにあって、あなたはイエスに目を注ぎ、イエスから平安を受けているだろうか。
もしそうであるなら、あなたにとって、またあなたを通して、イエスは豊かな恵みそのものとなってくださるであろう。

しかし、もし自力で苦心しながら答えを見出そうとするなら、主はおられないも同然となり、どのような結果が来ようとも、すべてはあなたの責任となる。

私たちが心配に悩む原因は、主を蚊帳の外にしてきたからである。
しかしイエス・キリストに打ち明け、相談するなら、混乱はそこでやむ。

主が混乱することはないうえ、私たちの心配は自分が主にとどまっているかどうか、ということのみだからである。

主にすべてを打ち明けよ。
そうすれば、死別や悲しみ、耐えられない困難を前にしても、「心を騒がせてはなりません」との主の声が聞こえてくるからだ。

God Bless You!!


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