2022年8月25日(木)
『わたしはあなたがたを友と呼びました。』ヨハネの福音書15章15節
生活のあらゆる具体的なことまで主に明け渡したときに初めて、私たちは自己犠牲の喜びを知ることができる。
ところが、自分を明け渡すことほど困難なことはない。
そこで、「条件が合えば……」とか、「人生を神に献げるべきことは頭では分かっている」と言う。
そのどちらの場合も、自己犠牲の喜びにあずかることは決してない。
けれども、すべてを神に明け渡し自分をイエスにゆだねると、聖霊はたちどころにイエスの喜びの一端を味わわせてくださる。
自己犠牲の最終目標とは、自分のいのちを「友」なるイエスのために投げ出すことにある。
そのため聖霊が私たちの心に入ると、イエスのためにいのちを捨てることが私たちの最大の願いとなる。
しかも、自己犠牲という思いが頭をかすめることさえない。
犠牲とは、聖霊の熱烈な愛の現れだからである。
主のご生涯は、私たちにとって自己犠牲の模範である。
「わが神よ、私はあなたのみこころを行うことを喜びとします」とあるとおりのご生涯であった。
主は自ら途方もない犠牲を払われたが、そこにはあふれるばかりの喜びがあった。
私は完全な服従の心をもって、イエス・キリストに自分を明け渡した経験があるだろうか。
もし主が北極星のように私を導く存在でなければ、私が犠牲を払っても無益である。
しかし、もし主から目を離さずに払うべき犠牲を払うなら、主の影響によって、徐々に、しかし確実に私も造り変えられていくのである。
他の人と「相性が良い」ということが、あなたの神の前における歩みの妨げとならないように気をつけなければならない。
親近感の上に築かれた人間的な愛は、拒絶や軽蔑という残酷な方法で終止符が打たれなければならない場合がある。
「相性が良い」と聖徒が感じる対象は主イエスである。
しかし、神を愛する愛とは、感傷的なものではない。
聖徒にとって神を愛することほど実際的なことはないのである。
「わたしはあなたがたを友と呼びました」とイエスは言われた。
その友情は、主が私たちのうちに創られた新しいいのちに根ざしている。
古いいのちとはきわめて相性が悪く、神のいのちとだけ相性が良い。
そのいのちを持つ人にまさって、謙遜で純粋で献身の思いに満ちた人はいない。
God Bless You!!
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