2022年8月23日(火)
『あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』マタイの福音書6章6節
イエスは、御父について密かに夢を見よ、とは言われなかった。
御父に密かに祈れ、と言われたのである。
祈るとは意志を働かせて努力することである。
私たちが他の人の目にふれない場所に入り、戸を閉めた途端に直面する最大の困難は、祈ることである。
自分の思考が正常に動いていないように思われ、雑念と戦わなければならない。
あてどなく迷走する様々な思いをいかに治めるかということは、ひとりで祈るときの最大の戦いである。
私たちは自分の思いを従わせ、意志を働かせて祈ることを習得しなければならない。
どこで祈るかも前もって決めておかなければならない。
ところがそこに来てみると、雑念という厄介な問題が待っていて、「これをすませなければ。
またあれは今日中にやらなければ」と考え始めてしまう。
だから「戸を閉めよ」とイエスは言われたのである。
神の前に静まる、というのは、意識して感情の扉を閉め、神を覚えることなのである。
神は隠れたところにおられ、そこから私たちをご覧になっている。
人々と同じ見方で私たちをご覧にならず、私たちが自分を見るようにご覧になることもない。
私たちが実際にそのような「隠れたところ」に住むようになると、もはや神を疑うことはできなくなり、神ほど確かな存在はほかになくなる。
御父は隠れたところにおられ、それ以外のどこにもおられない、とイエスは言われた。
その「隠れたところ」に入るのだ。
そうすれば日常のありふれた出来事の中心に、神がいつもいてくださることが分かるようになる。
あらゆることについて神に相談する習慣を身につけよ。
眠りから目を覚ましたら、まず心の扉を全開して神をお迎えせよ。
そうしないかぎり、あなたは、こんなはずではなかった、という一日を過ごす破目になる。
しかし心の扉を思い切り開け放ち、「隠れたところにおられるあなたの父に祈る」なら、あなたが公の場で何を行ったにしても、神がそこにおられた、というしるしがいつまでも残ることだろう。
God Bless You!!
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