2022年8月22日(月)

2022年8月22日(月)


『確かに私はあなたがたに……バプテスマを水で授けていますが、しかし、その方は聖霊と火でバプテスマを授けられます。』マタイの福音書3章11節(英訳)


「確かに私は……、しかし、その方は……」と言える人生の節目に私は立ったことがあるだろうか。
その瞬間が来るまでは、聖霊のバプテスマが何を意味するのか、私に決して分かることはない。

「確かに私は」とは、自分の限界に達し、これ以上できることは何もないこと、「しかし、その方は」とは、まさにそこを出発点として、主が他のだれにも決してできないことをしてくださることを意味している。

主が来てくださる備えが私にあるだろうか。
良いものであれ悪いものであれ、道をふさぐものがあるかぎり、イエスは私の中に来て、みわざをなすことができない。

主が私のところに来られたとき、私が今まで行ったあらゆる間違いを光の中に引きずり出される覚悟はできているだろうか。
主はまさにそこにおいでになるからである。

自分は汚れていると私が分かっているところはどこでも、主は足を踏み入れてくださる。
しかし私が清いと思うところはどこであっても、主は足を踏み入れることをやめ、立ち去ってしまわれる。

悔い改めは、罪の意識というより、自分がいかに神にふさわしくないか、という名状しがたい思いをもたらす。
悔い改めるとき、私は自分が全く無力であることに気づく。
主の履き物を運ぶ値打ちさえないことを全身に感じる。

私はこのような悔い改めを経験しただろうか。
それとも、自己弁護の思いがどこかにくすぶったままだろうか。
神が私の生活に入って来ることができないのは、私の悔い改めがまだ不徹底なためである。

「その方は聖霊と火でバプテスマを授けられます。」

……ヨハネはバプテスマを一つの経験としてではなく、イエス・キリスのみわざとして説明している。
「その方は……バプテスマを授けられます。」
聖霊のバプテスマを受けた人に伴う唯一の経験とは、自分が神に全くふさわしくない、という意識である。

「確かに私は」とはそれを経験した過去のことである。
「しかし、その方」がやって来られ、奇跡としか言いようのないことが起きた。

自分には何もできない。
しかし主がすべてをなしてくださる、という自分の限界に立て。

God Bless You!!


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