2022年8月21日(日)
『心の貧しい者は幸いです。』マタイの福音書5章3節
新約聖書は、私たちの基準からすると、さして重要とは思えないことに注目する。
「心の貧しい者は幸いです」を直訳すれば、「困窮している人は幸いです」となる。
困窮している人ほどありふれた存在はない。
しかし、今日の教会の説教では、意志の強さとか人格の素晴らしさのように、だれでも気づく美点に目を向けさせる。
「キリストにつく決心をしよう」という言い方をよく耳にするが、主が全く信頼されなかったものつまり、人間の決心に強調が置かれているのはどうしたものか。
主が私たちに求めておられるのは、主につく決心をするということでは決してなく、自分を主に明け渡すということであって、両者の違いは大きい。
イエス・キリストの王国の土台にあるのは、ごく普通の人々の、本物の美しさである。
私が本当の意味で祝福を受けるのは、自分が貧しい時なのである。
もし私が、自分には強い意志も高貴な気質もないと分かれば、そのときイエスは「あなたは幸いです」と言ってくださる。
私が主の王国に入ることができるのは、この貧しさのゆえなのである。
良い人間だから、ということで御国に入ることはできない。
私が入れるのは、自分が困窮者以外の何者でもないからである。
神を証しする本当の美しさが自分から輝き出ているのに、その資質を宿す本人は、そのことに全く気づいていないものである。
感化を意識することは高慢であり、クリスチャンにふさわしくない。
しかし、その反対に「私は神にとって何の役にも立っていないのではないか」と思い始めると、たちどころに、主から来る美しさと清冽さを失ってしまう。
「わたしを信じる者は……その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」とあるが、自分がそうできているかどうか、吟味を始めると、主との接触が途絶えてしまうのである。
そもそも私たちに最も深い感化を与えたのはどういう人たちだろうか。
感化を与えたのは自分である、と主張する人々ではないことはもちろんだが、まさか自分であるとは夢にも思っていない人々こそ、私たちに感化を与えていたのである。
クリスチャン生活において、無言の感化を与えている本人はそれに気づいていない。
もしそれを意識しているとすれば、イエスに特有の、気取らない魅力は影を潜める。
イエスが働かれるのはどんな時かはいつでも知ることができる。
イエスがおられるなら、ごくありふれたことのなかにも私たちを鼓舞せずにはいないものがあるからである。
God Bless You!!
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