2022年8月16日(火)

2022年8月16日(火)


『牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。』ヨハネの福音書10章3節


《主を誤解して悲しむ》
教理のすべてに精通していたとしても、イエスを知らないということはありえなくはない。
教理に関する知識がイエスとの親しい交わりをしのぐことになれば、その人のたましいは深刻な危機に陥る。

マリアはなぜ泣いていたのだろうか。
教理はマリアにとって、足もとに生えている雑草ほどにも意味がなかったからである。
パリサイ人ならだれでも、教理的にマリアを笑い者にすることができたであろう。

しかし、パリサイ人たちがそうしたくてもできないことが一つだけあった。
それは、イエスがマリアから七つの悪霊を追い出したという事実である。

とはいえ、イエスご自身を知ることと比べれば、イエスの祝福は、今となっては無に等しかった。
マリアは「イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

「イエスは彼女に言われた。『マリア』」。

イエスが、「マリア」と彼女の名前を呼ぶやいなや、マリアは、今話しかけてくださった方が自分のよく知る主ご自身であることが分かった。
そして、「振り向いて、ヘブル語で『ラボニ』、すなわち『先生』とイエスに言った」のである。

《主を頑なに疑う》
イエスに関して疑いを持ったことがないだろうか。
たとえば、私がまだ経験していないことを、他の人がしている、というような場合である。

弟子たちは、イエスをこの目で見た、とトマスに告げたが、トマスは疑い、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

トマスはイエスに個人的に触れていただく必要があった。
そのように主がいつ、またどのように触れてくださるか、私たちには分からない。
しかし、その時が来たら、その尊さはことばに尽くしがたい。

トマスも思わず告白した。
「私の主、私の神よ」と。

《自分かわいさに主を否む》
ペテロは誓いやのろいのことばを使ってまでイエス・キリストを否んでしまった。
ところが復活された後、イエスはペテロだけに現れた。
ほかのだれもいないところでペテロの信仰を回復し、その後、他の弟子たちの前で、もう一度信仰を回復された。

するとペテロは思わず主にこう言った。
「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」と。

イエス・キリストとの、このような個人的な関わりが私にあるだろうか。
主の弟子であるという真のしるしは、イエスと自分は切り離せない関係にあり、それは何ものによってもふるわれないということである。

God Bless You!!


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