2022年8月12日(金)

2022年8月12日(金)


『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』マタイの福音書8章26節


私たちは恐れを覚えても、神に向かって祈ることぐらいはできる。

しかし、御名を呼ぶ者たちなら、主への揺るがない信頼がある、と主が期待されるのは当然である。
神は、ご自身の子どもたちの神への信頼が厚いために、どのような危機の中でも当てにできる、と期待される。

ところが、神に対する私たちの信頼はある一定のところまでで、それを過ぎると、神を全く知らない人と変わるところのない、初歩的で恐怖に駆られた祈りに戻ってしまう。

私たちはどうしていいか分からなくなり、神に対する最小限の信頼すらもなくなり、ましてや、神が世界を統御しておられることなど信じられなくなってしまう。

肝心の主は眠っておられるように思え、行く手に見えるのは砕け散る大波だけである。

「ああ、信仰の薄い者たちよ!」と言われた弟子たちの心を突き通した痛みはどれほどのものであったことだろう。
「またしくじってしまった!」という思いが彼らの心を占めたに違いない。

私たちにとっても、他人事ではない。
行く手に何が待ち構えようと、主に揺るがない信頼を置き、主のお心に喜びをもたらすことができたはずのところで、突然、何という失望と心痛が私たちを貫くことか。

人生には、嵐とか危機と呼べるものがなく、人間的に最善を尽くせた、と思う段階がある。
しかし危機が起きると、私たちが本当はだれに拠り頼んでいたのかが、たちどころに明らかになる。

もし私たちが神を礼拝することを学び、神を信頼してきたのであれば、たとえ危機が訪れても、私たちは限界点まで進むことができ、しかも主に対する信頼が破綻することはない。

さて、私たちは、聖化ということについて相当な期間考えてきた。
しかし、それは結局、どのような結果をもたらすのであろうか。
それは、神にある安息へと続くべきものであり、神と一つになることである。

この一体性により、私たちは神の目に責められるところのない者になるだけでなく、神に深い喜びをもたらす存在にもなるのである。

God Bless You!!


a:28 t:2 y:0