2022年7月9日(土)
『ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできない。」』ヨシュア記24章19節
あなたには、ほんの少しでも、神以外に頼るものがあるだろうか。
生来の資質や、恵まれた環境を当てにする思いがどこかに残ってはいないか。
神があなたに示された新しい使命を実践するにあたって、自分の力に頼ってはいないか。
このように問いかけて、自分を吟味してみよ。
「きよい生活を送る力が私にはありません」というのは、なるほどそのとおりであったとしても、イエス・キリストにきよめていただく決心はできるはずである。
「あなたがたは主に仕えることはできない」と、ヨシュアは民に言った。
しかし、神の全能の力が、信じる者の中を流れていくところに自分を置くことはできるはずである。
神の素晴らしいいのちが明瞭に表れるほどに、あなたと神との関係は、幸いなものとなっているか。
「民はヨシュアに言った。『いいえ。私たちは主に仕えます』」。
これは、衝動的にそう答えた、ということではなく、考えに考えた上での決断である。
「それにしても神が、私のような者をこの働きに召されるわけがない。
私は不適格だ。
この問いかけが私に関係しているはずがない」とあなたは言う。
そうではない。
あなたに関係していることは間違いない。
それどころか、あなたが弱ければ弱いほど、また頼りない存在であればあるほど好都合なのだ。
密かに自分に期するものがある人、またそれを当てにしている人は、「私は主に仕えます」とは到底言えないだけでなく、もっとも不適格な人なのである。
「ああ、そう信じることができたなら!」と私たちは言うが、「そう信じるつもりが自分にあるのか」ということが問題なのだ。
イエス・キリストが不信の罪をあれほど問題視されたのも無理はない。
「彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」。
もし神が言われたことをそのとおりに本気で信じたら、私たちは今ごろどうなっていたか想像してみることだ。
神が私にとって、ご自身が言われているとおりの存在になってくださるように願う勇気が私にあるだろうか。
God Bless You!!
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