2022年7月30日(土)

2022年7月30日(土)


『イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。……人のうちに何があるかを知っておられたからである。』ヨハネの福音書2章24節、25節


迷いから覚める、というのは、もはや人生において、思い違いもなく、誤った印象も持たず、間違った判断をしないということである。

しかし、もはや欺かれることはないにしても、迷いから覚める経験をしたことによって、私たちが皮肉屋になったり、他の人に対して過剰なまでに批判的になったりすることがある。

しかし、神によって迷いから覚めたのであれば、相手が男性であれ女性であれ、相手をありのままに見ても、そこには皮肉もなければ、辛らつで非情なことばを向けることもない。

人生に大きな傷や悲しみ、そして痛みをもたらすものの多くは、幻想に端を発している。
私たちはお互いの実像に対して忠実であるのではなく、お互いに対する間違ったイメージに忠実であるにすぎない。

私たちの考えによれば、すべては楽しくてよいものか、それともよこしまで悪意に満ち卑劣なものかのどちらかである。

迷いから覚めるのを拒むことは、人生における多くの苦しみの原因である。
そして苦しみは次のような段階を通る。

仮に私たちがだれかを愛し、神は愛さないことに決めたとすると、私たちはその人にあらゆる面での完璧さと公正さを要求しないではいられなくなる。
そしてそれが得られないと分かると、私たちはその人に対して冷酷になり、復讐心すら抱くようになるのである。

それは、人間にはできないことを私たちが要求した結果である。
人の心が痛み疼くとき、その深みまで満足させてくださる方は唯一、主イエス・キリストがおられるだけである。

それなのに、私たちの主は、なぜあらゆる人間関係において、あれほどまでに妥協のない姿勢をとられたのだろうか。
それは、イエスご自身に信実でないあらゆる人間関係は、やがて破綻の憂き目にあうことが分かっておられたからである。

私たちの主は、だれにもご自身をお任せにならなかった。
とはいえ、主は疑い深くなることも、辛らつになることもなかった。

私たちの主が、神に対して持っておられた信頼と、だれに対しても働く神の恵みに対する信頼はまさに完全であったので、主はだれに対しても絶望されなかったのである。

もし私たちの信頼が人間に対するものであるとしたら、私たちはやがてだれに対しても絶望して終わるだけである。

God Bless You!!


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