2022年7月25日(月)

2022年7月25日(月)


『幸いなのは……。』マタイの福音書5章3節〜11節(英訳)


イエスが述べたことを初めて読むと、驚くほど単純で、びっくりすることは何もないように思われる。
まるで私たちの潜在意識の中に気づかないうちに染み込んでいくかのようである。

「幸いなるかな」で始まる至福の教えは、あまりにも霊的で、現実に疎い人々にとっては心休まる美しい教訓であっても、私たちが暮らす、融通の利かない忙しい日常生活においては、実際に役立つことはほとんどないように思われる。

しかし、程なく私たちは、至福の教えには聖霊の「ダイナマイト」が仕込まれていることに気づく。
私たちの生活の中で、それを実行せざるを得ない事情が起きると、「爆発」が起きるのである。

聖霊が至福の教えの一つでも記憶によみがえらせてくださると、「なんと驚くべき主張だろう」と私たちは言う。
そして、主のことばに従った場合、私たちの状況に生じる大きな霊的変動を受け入れるかどうかを迫られるのである。

そのようにして神の御霊は働かれる。

山上の説教を文字どおりに適用するだけなら、新しく生まれる必要はない。
山上の説教を文字どおりに解釈するのはたやすいことである。

しかし、主のご主張を私たちの事情に適用するにあたって、御霊がそれをどのように説き明かしておられるかは、聖徒が逃げてはならない課題である。

イエスの教えは、私たちの普通の見方とは全くバランスが取れないものである。
それを聞けば驚きと不快感を禁じ得ない。

しかし私たちは、たとえ徐々にではあっても、聖霊がそれを私たちそれぞれの事情に適用されるのに合わせて、自分の歩みや会話をイエス・キリストの教えに適合させていかなければならない。

山上の説教は、規則や決まりの集大成ではない。
聖霊が自由に働かれれば、私たちはどのような生き方をするかを描いたものなのである。

God Bless You!!


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