2022年7月18日(月)
『彼は言った。「主よ、あなたはどなたですか。」』使徒の働き9章5節(英訳)
贖いという奇跡によって、タルソのサウロは一瞬にして頑固で熱烈なパリサイ人から、主イエスに仕える、謙遜で献身的な奴隷に変えられた。
説明のつかない奇跡が起きたのである。
説明がつくことに奇跡的な要素は何もない。
自分で説明ができることは自分の力でどうにかなるものなので、あらゆることに説明を求めるのはごく自然なことである。
ところが、服従することは自然にできることではない。
しかも、不服従がどんな場合でも罪深いとは限らない。
服従したからといって、命令する人に自分を超えた権威があることを認めているのでなければ、道徳的に立派であるとは言えない。
もし従わなかったとしても、相手にとってはそれが解放の経験かもしれないのである。
相手に対して「あなたはこうしなければならない」と言って、自分の支配の中に置こうとするなら、相手は心が折れ、神の働きに不適格な者となる。
自分が服従する本当の理由が、聖なる神を認めていることでなければ、人は訳も分からず従う奴隷にすぎない。
多くの人々は、宗教的な装いをかなぐり捨てたときに、ようやく神のもとにやって来る。
人の心を支配すべき主人はたったお一人であり、それは宗教ではなく、イエス・キリストである。
しかし、主を見た後になお、私が主に服従しないのであれば、「私はわざわい」である。
主は決して私に服従を強制されない。
しかしその時から、私は自分のたましいの中で、神の御子の死刑執行令状に署名を始めているのである。
私がイエス・キリストと正面から向き合い、「私はあなたに従いません」と言ったとしても、主はそれ以上何も言われない。
しかし、もしそのようなことをするなら、キリストの贖いという、自分を造り変える力を拒んでいることになる。
もし私が神の光のもとにやって来さえすれば、自分がどれほど忌まわしい者になっていたとしても、神の恵みには少しの変化もない。
しかし、もしその光すらも拒むのであれば、「私はわざわい」である。
God Bless You!!
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