2022年7月15日(金)

2022年7月15日(金)


『私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。』ローマ人への手紙1章14節


イエス・キリストに対する恩義の思いに圧倒されていたパウロは、自分の人生を費やしてそれを表現した。
パウロの人生に大きな感化を与えたのは、イエス・キリストが自分の霊的な債権者である、という思いであった。

私もまた、まだ救われていないすべての人に関して、キリストに負債がある、という意識を持っているだろうか。
聖徒としての私の霊的な栄誉は、そのような人々に関して負っている自分の負債を完済することにある。

私の人生で価値あるものはどんな小さなことも、イエス・キリストの贖いの賜物である。
キリストが他の人々の人生に、具体的な形で贖いをもたらしてくださるように、私がしていることが何かあるだろうか。

それができる唯一の方法は、神の御霊が、そのような負債の意識を私の中に組み入れてくださることである。
私に求められているのは、人々より優れた者になることではなく、主イエスの奴隷となることである。

「……あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」。

自分をイエス・キリストに「売り渡した」パウロは、次のように言う。
「私はイエスの福音のゆえに、地上のすべての人に負債を負っている。
私が自由にされたのは、完全にイエスの奴隷となるためである。」

これこそは、霊的な栄誉を自覚するに至った人の特徴である。

自分のことについて祈るのはやめようではないか。
そしてイエスの奴隷として他の人のために自分の人生を費やそうではないか。

これこそ、実際の生活において、自分が裂かれたパン、注がれたぶどう酒となる、ということの真の意味である。

God Bless You!!


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