2022年7月14日(木)

2022年7月14日(木)


『しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。』マタイ福音書5章39節


この聖句は、クリスチャンであるために受ける辱めがどんなものかを明らかにしている。

当然のことながら、殴り返さなければ臆病者とみなされる。
しかし、霊的な見方からすると、殴り返さないのは、内住しておられる神の御子の現れにほかならない。
もし侮辱を受けたなら、それを恨みに思うのではなく、神の御子を現す機会とすることだ。

イエスのご性質とは模倣できるようなものではない。
あなたの中にそれがあるかないかの問題である。

聖徒にとっては侮辱を受けることが、主イエスの、信じられないほどの優しさを示す絶好の機会となる。
山上の説教は「あなたの義務を行え」と教えているのではなく、「あなたの義務ではないことを行え」と教えている。

もう一ミリオン行くことも、もう一方の頬を向けることも、あなたの義務ではない。
しかし、もし私たちがイエスの弟子であるなら、そうすることは当たり前である、とイエスは言われた。

「これほどまで事実と違うことを言われ、誤解されたのでは、もうやっていられない」という思いはどこにもあってはならない。

私が自分の権利を主張するたびに、私は神の御子に傷を負わせている。
しかし、私自身が痛手をこうむれば、イエスは傷を負わずにすむのである。
これが「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」ということの真の意味である。

弟子であるなら、自分の人生で死活問題になっているのは自分の栄誉ではなく、主の栄誉であることに気がついているはずである。

相手に決して正しさを期待してはならない。
しかし、あなた自身はどこまでも他の人に正しくなければならない。

私たちは常に公正を求めてやまないものである。
しかし、山上の説教はこう教えている。

「人に公正を期待するな。
しかし、人には常に公正であれ」と。

God Bless You!!


a:31 t:1 y:0