2022年7月13日(水)
『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。』イザヤ書6章1節
神とともに織りなす私たちのたましいの歴史とは、私たちが尊敬し、目標としてきた人々が世を去っていく歴史でもある。
神は繰り返し、私たちの友を取り去らなけなければならない。
その人々が占めていた位置に神が就かれるためである。
そして、まさにそのような時、私たちは心が挫け、衰え、やる気を失うのである。
これを私自身の経験から考えてみよう。
私にとって神のような存在であった人が死んだあの年、私はすべてを投げ出したか。
病気になったか。
意気消沈したか。
それとも私は、主を見たか。
私に神が見えるかどうかは、私の人格のあり方と深く関係している。
啓示とは人格によって決せられるものである。
そもそも「私は主を見た」と言うからには、神に呼応するものが私の人格の中になければならない。
私が新しく生まれ、神の国が見えるようになるまでは、自分の偏った見方で見ているにすぎないからである。
私に必要なのは、外部の出来事による外科手術と、内部の浄化である。
神にしっかり向き合い、神以上に大切な存在はどこにもいないと分かるまでは、第一に神、第二に神、第三に神という優先順位を打ち立てなければならない。
わが神よ
世界中どこを見ても
あなたの代わりになれるものはありません
あなた以外にだれひとり
主を見るための代価を払い続けよ。
そしてその幻にふさわしく生きる用意があることを神に見ていただこうではないか。
God Bless You!!
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