2022年7月11日(月)

2022年7月11日(月)


『私がキリストを知るために……。』ピリピ人への手紙3章10節(英訳)


聖徒が目指すべきことは、自己実現ではなく、イエス・キリストを知ることである。

霊的な聖徒であれば、今置かれている状況が偶然に起きたとは決して信じない。
また、自分の生活に世俗的な部分と聖なる部分がある、とは決して考えない。

思いがけず自分が関わることになったあらゆる状況は、イエス・キリストをさらに深く知るための手段である、と見なす。
また冒険的なほどに、自分を神の手に委ねている。

聖霊が目指しておられるのは、私たちが日々の生活の中でイエス・キリストを具体的に現していくことである。
私たちがそのようにできるまで、聖霊は何度でも同じ場所に私たちを引き戻される。

自己実現を目指すと、崇められるのは行いであるが、聖徒は、自分の行いを通してイエス・キリストを崇める。
食べるにも飲むにも、弟子たちの足を洗うにも、何をするにあたっても、イエス・キリストを生活の中で現していくには、人任せではなく、自分が動かなければならない。

私たちの実生活のどの場面を取り上げても、イエスのご生涯に模範のないものはない。
私たちの主は、どれほど卑しいと思われる仕事においてさえ、御父との関係をつぶさに示された。

「イエスは、ご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられたので、……手ぬぐいを取って……弟子たちの足を洗い……始められた」はその一例にすぎない。

霊的に健全な聖徒にとっての目標は「キリストを知る」ことである。
私は、今いる場所で、キリストを知っていると言えるだろうか。

もしそうでないなら、私はキリストを失望させているのである。
私が今ここに存在しているのは、自己実現をするためではなく、イエス・キリストを知るためである。

キリスト教の名でなされる働きで、義務感からしているにすぎない場合がどれほど多いことだろう。
それは、決して霊的な聖徒がとるべき態度ではない。

聖徒の目標は、どのような環境の中にあっても、イエス・キリストを具体的に現していくことなのである。

God Bless You!!


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