2022年6月23日(木)
『彼は……悲しみの人で、悲哀とはどういうものかをよく知っていた。』イザヤ書章53章3節(英訳)
私たちは、主が知っておられたようには悲哀というものを知らない。
それに耐え、切り抜けはする。
しかし、悲哀を親しく知るようにはならない。
私たちは人生が始まった時から、自分に罪があるという事実を認めない。
合理的な視点から人生をながめて、自分の本能を抑え、自分を教育しさえすれば、やがては神のいのちに発展するいのちが生まれる、と言う。
ところが、年を重ねていくうちに、それまで考慮してこなかったものに気づくようになる。
すなわち、罪の存在である。
罪のせいで私たちの計算はすべて狂ってしまう。
罪のために、物事の土台は合理的になるどころか、予測不能になってしまうのである。
罪とは事実であって、欠点ではないことを、私たちは認めなければならない。
罪とは神に対するあからさまな反逆である。
私の人生において、神が死ぬか、罪が死ぬか以外の選択肢はない。
新約聖書は、そのどちらを取るか、最終的に私たちに迫るものである。
もし罪が私を支配するなら、神のいのちは私の人生から抹殺されることになる。
しかし、もし私が神に支配されるなら、罪は私の人生から抹殺されることになる。
究極的に、それ以外の結論はない。
罪がその頂点に達したのは、イエス・キリストを十字架につけた時のことである。
神の歴史の中で起きたことは、あなたの歴史や私の歴史にも当てはまる。
私たちは、罪に関するこの事実をしっかり理解しておかなければならない。
なぜイエス・キリストが地上に来られたのか、なぜ人生には悲しみと悲哀が存在するのか、という説明は、罪を抜きにしては考えられないからである。
God Bless You!!
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