2022年6月2日(木)
『主を恐れる人はだれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。』詩篇25篇12節
あなたの脳裏を去らないものは何か、と問われれば、あなたは「そんなものは何もない」と言うだろう。
しかし、だれもが何かで頭がいっぱいである。
普通は自分自身のことで。
そしてクリスチャンであれば信仰上の経験で。
しかし、詩篇作者は言う。
神が脳裏を去ることがないようにせよ、と。
人生において途切らせてはならないのは神の存在の意識である。
それは神について考える、ということとは異なる。
私たちの生涯は、内面も外面も、神の存在にすべてが覆われていなければならない。
子どもの意識は母親のことで頭がいっぱいであるために、たとえ母親のことを意識的に考えていないとしても、災いが迫ったときに頼るのは母親である。
それと同じように、私たちもまた、一切のことを神との関係から見るように努め、「神の中に生き、動き、存在する」者でなければならない。
なぜなら、神への意識が途切れないでいると、それがいつも自然に私たちを導く役割をしてくれるからである。
もし私たちの心が神でいっぱいであれば、神以外の何ものも——どんな気苦労も、どんな苦難も、どんな心配事も——入ってくることはできない。
主が、なぜあれほどまでに思い煩いの罪について強調されたかという理由が、これで分かる。
神が私たちの周りを完全に囲んでくださっているというのに、どうしたら私たちはこれほど不信仰になれるというのだろう。
神で心が満たされていることこそは、敵のあらゆる攻撃に対する効果的なバリケードなのである。
「その人のたましいは幸せの中に宿る」
苦難や誤解、謙誘中傷、その他もろもろの困難の中にあっても、もし私たちの「いのちが、キリストとともに神のうちに隠されている」なら、神は私たちをくつろがせてくださる。
私たちは、神との、永続する親しい交わり、という素晴らしい啓示を、まるで無いもののように扱っている。
「神は われらの避け所」。
神の隠れ場に侵入できるものは何一つないのである。
God Bless You!!
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