2022年6月19日(日)

2022年6月19日(日)


『あなたはわたしを愛していますか……わたしの羊を牧しなさい。』ヨハネの福音書21章16節


イエスは、あなたの考え方に賛同する人々を起こせ、と言われたのではない。
「わたしの羊を牧し、わたしを知ることによって霊的な養いを受けられるようにせよ」と言われたのである。

私たちは、宣教や伝道という面から行うことを奉仕と考える。
しかしイエス・キリストは、私たちがイエスのためにすることではなく、ご自身に対する私たちのあり方そのものを奉仕と呼ばれる。

弟子という立場は、特定の信念や信条から離れないことではなく、イエス・キリストに対する献身がその土台である。

「わたしのもとに来て、……自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」というイエスのことばには、論議も強制もない。

ただ、「もしわたしの弟子になりたいなら、わたしへの献身が必要である」と言われただけである。

神の御霊に触れられると、人は突然言う。
「これで、イエスとはどのような御方であるかが分かりました」と。
これが献身の始まりである。

今日、私たちは信仰信条を個人的信仰の代用にしてしまっている。
立派な目的のために献身する人は多くても、イエス・キリストに献身する人がきわめて少ない理由はそこにある。

人々は本当のところ、イエスに献身することを望んではいない。
イエスが始められた大義のために尽くそうと望んでいるにすぎない。

今日、イエスを人類の友と見るだけの知識人にとって、イエス・キリストは厄介な存在である。
しかし主が他のすべてに優先されたのは、御父のみこころに従うことであり、人々の必要を満たすことではなかった。

人々を救うことは、御父への従順がもたらす当然の結果だったのである。

もし私が人類の幸福という大義のためだけに献身するだけなら、程なく疲れ果て、人々に対する愛はしぼんでいくに違いない。

しかし、私自身がイエス・キリストを熱烈に愛するなら、どれほどひどい扱いを受けようとも、人々に仕えていくことができる。

弟子として生きていく秘訣は、ひとえに自分をイエス・キリストに献げることにある。
そのような生き方からにじみ出てくる特徴は、慎ましさである。

それはあたかも、地に落ちて死んだ一粒の麦に似ている。
しかしやがて、そこから芽が出て、あたりの光景を一変させる時がやってくるのである。

God Bless You!!


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