2022年6月18日(土)
『……ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。ところが強風を見て怖くなり……。』マタイの福音書14章29節、30節
風は実際に荒れ狂い、波は実際に高かった。
しかし、ペテロには、最初、それらが目に入らなかった。
少しも計算に入れなかった。
ただ主のお姿だけを見つめ、それを見失わないようにして舟から足を踏み出し、水の上を歩いたのであった。
ところが、周辺の様子を計算に入れた途端、あっという間に水の中に沈んでしまったのである。
ペテロが水の上でなく、湖底を歩けるようにしてくださってもよかったのではないだろうか。
もちろん、そうすることも可能だった。
しかし、そのどちらにしても、ペテロが主を見続けていなければできないことだったのである。
私たちは、ある事柄については神を見ながら元気よく事を始める。
ところが、そのうちに自分のことを考え始めて、あっという間に沈んでいく。
もし主を見つめてさえいれば、主があなたの周辺の状況をどのように導かれようが構わないはずである。
あなたの周辺に起きていることは紛れもない事実である。
しかし、それに目を奪われると、あたふたしてイエスを見失い、ついには主から叱責が飛んでくる。
「なぜ疑ったのか」と。
実際の状況がどうであれ、なるがままに放っておけばよいのだ。
大事なことは、イエスから目を離さないことであり、イエスに完全な信頼を置き続けることである。
神が話しかけておられるのに、「神が私に本当に語られたのだろうか」と、一瞬でも思案し始めるなら、もはやなすすべはない。
信仰に関しては無謀であれ。
今すぐにすべてをかなぐり捨てて、主に拠り頼め。
主の御声がいつ届くか、あなたには分からない。
しかし、どんなにかすかでも、御声だと気づいたなら、思い切って自分を、そしてすべてを主に任せることだ。
自分を捨てないでおいて、主の御声を聞くことはできないのだから。
God Bless You!!
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