2022年6月14日(火)

2022年6月14日(火)


『わたしにとどまりなさい。』ヨハネの福音書15章4節


《決断の必要性》
イエス・キリストの贖いのおかげで、私はイエスの御霊を宿す者となった。
そうであるなら、私は、自分の考え方が主と一致するように、心がけなければならない。

イエスと同じ考え方をするようにと、神が強制されることはない。
それは私が自分ですべきことである。

私には「すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させる」責任がある。

「わたしにとどまりなさい」というのは、知的な事柄においても、金銭に関わることにおいても、そのほか、人間として生活していくうえで必要なことのすべてについても当てはまる。

世間から隔離された生活をするわけではないからである。

神が私の抱える事情に関わろうとしてくださるのを、神と交わる妨げになるという理由で、妨げてはいないだろうか。
それこそは不謹慎な態度そのものである。

私の事情がどうであろうと問題ではない。
どんな事情があろうと、祈祷会にいるときと全く変わりなく、私はイエスのうちにとどまることができるからである。

私が自分の手で事情を変えたり、整えたりする必要は全くない。
私たちの主がその内面において御父にとどまることにおいては、一点の落ち度もなかった。
肉体はどこにあろうと、心は神に憩っておられたのである。

主は状況を自ら選択しようとはせず、御父が用意されたご計画に、柔和に従われた。
主のご生涯が驚くほど悠然としたものであったことを思い出してもみよ。

私たちは熱狂の中に神を見ようとしてやまない。
私たちは、「キリストとともに神のうちに隠されている」いのちの静けさが全く分かっていないのである。

キリストにとどまることからあなたを引き離すものは何か。
「はい、主よ。少しだけお待ちください。
どうしてもこれをしないわけにはいきません。

もちろん、これが片づいたら、あなたにとどまります。
今週が過ぎれば大丈夫です。
その時になったらあなたのうちにとどまることにしましょう」と私たちは言う。

そうではない。
行動を起こすのは今だ。
今から主にとどまることを始めよ。

初めのうちは、続ける努力が必要である。
しかし、ついにはそれがいのちの原則となり、あなたは意識しないでも主にとどまるようになる。

あなたが今どこにいようとも、また将来どこに行くことになろうとも、イエスにしっかりとどまる決断を下すことが何よりも大切である。

God Bless You!!


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