2022年6月12日(日)
『「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」』ヨハネの福音書1章38節、39節
《自分に対する関心が眠ると、真の関心が目覚める》
「彼らはその日、イエスのもとにとどまった」。
私たちがするのは、せいぜいそこまでである。
イエスとともに短時間を過ごすが、翌朝目が覚めると、現実にかえり、自分がしたいことに心を向ける。
そしてイエスにとどまったことは過去の出来事となっていく。
しかし、イエスのもとにとどまることができない環境などあるはずがない。
「あなたはヨハネの子シモンです。
あなたはケファ(言い換えれば、ベテロ)と呼ばれます」。
神が私たちの新しい名前を記される場所は、私たちの高慢や自信過剰、利己心がかき消された部分である。
せっかくの新しい名前が、はしかの斑点のように散らばっている人もいる。
部分的に見れば、いかにも正常に見える。
霊的に絶好調の私たちを見れば、人は文句のつけようのない聖徒であると思うだろう。
しかし、気分が乗らないときには、頼むから見ないでほしい、ということになる。
本当の弟子とは、自己の利益や高慢、そして自信過剰が残すところなく消されて、新しい名前がからだの全面に記されている人のことである。
高慢とは、自分を神の立場に置く罪である。
今日では、パリサイ人というよりはむしろ取税人に近い態度で、そうする人がいる。
「私が聖徒だなんてとんでもありません」と言うほうが、人間の高慢さにとっては受け入れられやすい。
しかし、それは無意識に神を冒漬していることにほかならない。
文字どおりに受け取れば、「私はあまりにも弱い人間であり、キリストの十字架によっても贖われることのできない人間です」と言っているのと同じである。
あなたはなぜ聖徒ではないのか。
それは、あなたが聖徒になることを望んでいないか、あるいは、あなたを聖徒にする力が神にあるとは信じられないかのどちらかである。
「神が私を救い、そのまま天国に連れて行ってくれれば、それでいい」とあなたは言う。
まさに神はそのとおりにしてくださる。
イエスは御父とご自身について「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と言っておられるからである。
いろいろな条件をつけずに、イエスにあなたのすべてになっていただくことだ。
そうすれば、イエスは一日どころか、永遠にわたってあなたをご自身の住まいに連れて行ってくださる。
God Bless You!!
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