2022年5月8日(日)
『あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので…。』ヨハネの黙示録3章10節
忍耐とは単なる我慢のことではない。
神の御手の中にある一人の聖徒の人生は、射手の手にある弓と矢のようなものである。
神は、聖徒には見えない目標に向かって的を定めておられる。
そのため、聖徒を引き絞り、緊張をもたらす。
その結果、聖徒は時折「私にはもう耐えられない」とこぼす。
ところが神はそれに少しもかまうことなく、目標が照準に入るまでなおも弓を引き絞り、絶好の時を待って、あなたという矢を放たれるのである。
神の御手に自分自身を任せよ。
あなたは今、忍耐が必要とされてはいないだろうか。
信仰の忍耐を働かせて、イエス・キリストとの親密な関係をしっかり保て。
ヨブのように「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望む」と宣言するのだ。
信仰とは哀れな感傷に浸ることではなく、神が聖なる愛の御方であるという事実に立脚した、力強く、揺るがない確信のことである。
あなたには今、神が見えない。
神がしておられることを理解することもできない。
しかし、あなたは神という御方を知っている。
信仰の破船が起きるのは、神が聖なる愛の御方であるという永遠の真理の上に堅く立つことから来る心の平静さがないからである。
信仰とは、あなたの人生における究極の努力である。
無鉄砲なほどに神を信頼して、神に身を預けることなのである。
神は私たちを救うために、イエス・キリストにすべてを賭けてくださった。
今度は、私たちが神を信頼してすべてを神に賭けてみよ、と神は願っておられる。
このような、信仰がまだ働いていない領域が私たちの中にいくつも残っている。
神のいのちにまだ触れていただいていない部分である。
イエス・キリストのご生涯に、そのような部分は一つもなかった。
私たちの人生にも、そのような部分が一つもあってはならない。
「永遠のいのちとは、……あなた……を知ることです」。
永遠のいのちとは、直面すべきことに対して、たじろぐことなく直面することができるいのち、というのがその本当の意味である。
もし、私たちがこの見方に立つならば、人生は一つの壮大な物語となり、目を見張るような出来事を常に見る栄光の機会を得ることになる。
神は何とかしてこの力の中心に私たちを至らせるために、私たちを訓練しておられるのである。
God Bless You!!
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