2022年5月5日(木)

2022年5月5日(木)


『さばきが神の家から始まる時が来ているからです。』ペテロの手紙第一4章17節


クリスチャンの働き人であるなら、救いは人間から出た考えではなく、神から出たお考えであることを決して忘れてはならない。

それゆえ、救いの深さは測りがたい。

救いとは神の偉大な御思いであって、単なる一つの経験のことではない。
経験とは、救いを意識するための入り口にすぎない。

したがって、経験自体を宣べ伝えるのではなく、経験の背後にある神の偉大な御思いを伝えなければならない。

宣教する場合、どうしたら地獄に行かずにすむか、あるいは品行方正な人間になれるかということを私たちは宣言するわけではない。
私たちは、神に関わる良い知らせを伝えるのである。

イエス・キリストの教えにおいては、さばきという要素がいつも明確に語られる。
それは神の愛のしるしなのである。

神に至るのは難しくてできないという人に、決して同情してはならない。
神の側に落ち度はないのである。

神に至るのがどうして難しいのか、その理由を探るのは私たちのすべきことではない。
私たちがすべきことは、神に関する真理を提示し、神の御霊にその人の誤りを示していただくことである。

私たちの宣教の中身をためす何よりの試金石は、だれもが自分はさばきを受けて当然であると自覚するかどうかである。

神の御霊は一人ひとりを神と向き合わせてくださるのである。

イエスが私たちに必要な力を与えないでおいて、何かをせよ、との命令を私たちに与えたとすれば、イエスは私たちを騙したことになる。

また、もし私たちが無力であるから従えない、と言い訳をするなら、神はとんだ見込み違いをしておられると言っているに等しい。

自分に頼ろうとする傾向はすべて、神の力によって抹殺されなければならない。
自分のどうしようもない弱さに気づき、主に頼るなら、その時こそ、神の御霊はその力を発揮してくださるのである。

God Bless You!!


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