2022年5月4日(水)
『こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。』ヘブル人への手紙10章19節
とりなしの祈りとは、個人的な同情心を神の御前に携え行き、自分の願うことをぜひかなえてほしいと神に訴えることである、という考えには十分注意しなければならない。
私たちが神に近づくことができるのは、ひとえに、私たちの主が罪そのものとされ、私たちの身代わりになってくださったおかげである。
私たちは「イエスの血によって大胆に聖所に入ることができる」ようになったのである。
とりなしを妨げるものとして、霊的な頑固さほどたちの悪いものはない。
それは、「贖っていただかなくてもよいもの」が自分にも他の人々にもある、という同情心に基づいている。
自分には贖いを必要としない長所や美点がある、という考えが私たちにあるのだ。
このような考えに立つと、私たちは霊的に鈍重な者となり、とりなしそのものができなくなる。
人々に対する神のご関心が自分のものとなっていないため、私たちは神に対して不機嫌になっていく。
それでいながら、自分の考えはすぐに実行する用意があるので、とりなしとは、もともと備わっている自分自身の同情心がいかに素晴らしいものかをほめたたえるものとなる。
イエスが罪そのものとされたということは、私たちの同情心のすべてが根底から変わることであるということに、私たちは気づかなければならない。
身代わりにとりなしをするとは、生来の同情心を、他の人々に対する神のご関心に、意図して入れ替えていただくことなのである。
私は自分の考えを曲げない者か、それとも身代わりにとりなしをする者か。
神の前に我意を通す者か、それとも素直な者か。
すぐに不機嫌になる者か、それとも霊的な心を持つ者か。
自分のやり方に固執する者か、それとも神と一つになろうと決意した者か。
God Bless You!!
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