2022年5月31日(火)

2022年5月31日(火)


『しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。』ヨハネの福音書2章24、25節


《神を第一とする》
主は、だれにもご自身をお任せにならなかった。
しかし、相手がだれであれ、疑うことも、敵意を持つことも、絶望することもなかった。

それは第一に神を信頼しておられたからである。
だれであれ、神の恵みがあれば可能であることに、主は完全な信頼を置かれた。

もし私が第一に人を信頼するなら、ついにはだれに対しても絶望を味わうことになる。
私が憤慨するのは、人にできるはずのないことが人にできる、すなわち、人は完全に正しい生き方ができるはずだ、と思い込んでいたからである。

あなた自身であれ、他の人であれ、その人のうちにある神の恵み以外のものに決して信頼を置いてはならない。

《神のみこころを第一とする》
「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」

人は必要だと分かったことに対して従順になる。
主のご従順は、御父のみこころに対するものであった。

今日(約100年前のチェンバーズの時代)、よく耳にするスローガンは次のようなものである。
「行動を起こそう。
異教徒は神を知らずに死んでいく。
私たちは出て行って、神のことを知らせなければならない」……。

しかし、その前に、神が私たち個人に必要としておられることが満たされているかどうかを確認しなければならない。

「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と主は言われた。

この学院(チェンバーズが創設したバイブル・トレーニング・カレッジ)の目的は、神が必要としておられることに対して、自分を適合させることにある。

神が私たちに必要と判断されたことが満たされれば、神は私たちのために道を拓き、ご自身の必要を他の場所で実現してくださる。

《神の信頼を第一とする》
「また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」。

神の信頼とは、ご自身を赤子として私の手に委ねてくださるほどのものである。
神は私の人生が、いわば「ベツレヘム」になることを期待しておられるのである。

私は自分の平素の生活が、内住される神の御子によって、徐々に変容されていくことを許しているだろうか。
神の最終的なみこころは、私の限りある肉体を通して、御子が現されることなのである。

God Bless You!!


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