2022年5月14日(土)
『それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。』コリントへの手紙第二4章10節
私たちは、神の恵みによって自分の内側に何が成し遂げられたかを示す習慣を形成していかなければならない。
それは、単に地獄のさばきから救われた、という問題ではなく、神の御子のいのちが、死すべき私たちの身にはっきり現れるために救われたということである。
そして、私たちが御子のいのちを現しているかどうかを示すのは、逆境や困難なのである。
私の生き方には、神の御子の本質である麗しさ、また優しさが現れているだろうか。
それとも、御子とは関係のない「自我」の苛立ちが現れているのだろうか。
逆境や困難さえ喜ぶことができるようにしてくれるものは一つしかない。
それは、神の御子のいのちが私のうちに実際に現れるように願う、切実な思いである。
どんなに嫌なことを前にしても、「主よ、私は喜んであなたに従います」と言ってみることだ。
すると、たちどころに神の御子は私の生活の前面に進み出て、私の生活の中に、ご自身の栄光になるような結果をもたらしてくださるのである。
神と言い争ってはならない。
光に従うその瞬間、神の御子は、あなたがその問題を通過できるようにしてくださる。
しかし、神と議論すれば、神の御霊を悲しませることになる。
神の御子のいのちが現れるように、自分をふさわしい状態に保たなければならない。
自己憐憫に陥ってしまうと、それができなくなってしまう。
私たちが置かれている状況は、神の御子がどれほど完璧であり、またこの上なく清い御方であるかを私たちに教える手段となる。
私たちの心は、神の御子を世に示す新しい方法が発見できたときに高鳴るべきである。
自ら逆境や困難を選択することと、神が逆境や困難に導かれることは全く異なる。
しかし、もし神があなたをそこに置かれたのであれば、神は「あなたがたの必要をすべて満たして」くださる。
神の御子のいのちがはっきり現れるように、たましいをふさわしい状態に保て。
過去の思い出に浸っていてはならない。
神のみことばが、いつもあなたの中に生きて躍動するものであることが肝心である。
God Bless You!!
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