2022年4月9日(土)

2022年4月9日(土)


『それから、彼らのうちの二人に……イエスは別の姿でご自分を現された。』マルコの福音書16章12節


救われるということと、イエスが見えるということとは別である。

イエスを一度も見たことがなくても神の恵みにあずかった人は多い。
しかし、ひとたびイエスを見ると、もはやかつての自分のままでいることは決してできない。
それまで心惹かれていたことが色褪せてくるからである。

イエスがあなたの目にどう映るかということと、イエスがあなたに何をしてくださったのかということは、常に区別して考えなければならない。

イエスがなしてくださったことしか分からないのであれば、あなたの信じる神は小さ過ぎる。
しかし、ありのままのイエスを見たとすると、経験の浮き沈みはあっても、あなたは「目に見えない方を見ているようにして、忍び通す」ことができるようになる。

生まれたときから目の見えない男は、キリストが姿を現し、ご自身を明らかにしてくださるまでは、イエスがどなたであるのか分からなかった。

イエスは、ご自分が関わった人の前に現れてくださる。
しかし、いつ来てくださるか、私たちの側で指示することはできない。
主は突然、予期しない場面で現れてくださるかもしれない。

その時、私たちは叫ぶ。
「主が見える」と。

イエスは、あなたにも、またあなたの友にも個別に現れてくださらなければならない。
あなたの目でイエスを見ようとしても、見えないからである。

一人には見えて、もう一人には見えない、ということになると、そこに断絶が生じる。
あなたの力であなたの友にも見えるようにさせることはできない。
それは神によるのでなければどうにもならないことである。

あなたはイエスを見たか。
もし見たのであれば、他の人にもイエスが見えるようにと望むことであろう。

「その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった」
イエスを見たのであれば、たとえ信じてもらえなくても、あなたはそれを伝えなければならない。

ああ もし私に話すことができたら
あなたもきっと信じることだろう
ああ 自分の見たことを言うことさえできたなら!
どう私は伝えたらよいのだろう
どうしたらあなたに聞いてもらえるのだろう
私がいたところに
主があなたを連れて行かれないかぎり
(フレデリック・マイヤーズ「聖パウロ」より)

God Bless You!!


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