2022年4月7日(木)
『イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。』マルコの福音書9章9節
人の子があなたのうちによみがえるまでは、何一つ話してはならない。
よみがえられたイエスのいのちがあなたを支配し、歴史に現れたキリストが教えてくださったことが分かるまでは……。
内面が正しい状態に達すると、イエスのことばはきわめて明瞭で、なぜ今まで理解できなかったのかと驚く。
以前、理解できなかったのは、心がそれを受けとめることのできる状態ではなかったからである。
主がわざと隠しておられるわけではない。
霊的生活が正しい状態になるまでは、そもそもイエスのことばを受け入れることができないのである。
「あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません」とイエスは言われた。
よみがえられたキリストのいのちが通って初めて、私たちはキリストのことばを担うことができるのである。
よみがえられたイエスのいのちを心に宿すということを、少しでも私たちは知っているだろうか。
知っている証拠とは、キリストのことばが、私たちにとって理解できる、ということである。
もし私たちのうちに神の御霊がおられなければ、神は何一つ、私たちにお示しになることができない。
私たちの頑固なものの見方が邪魔をして、神は結局何一つ示すことができないのである。
私たちが何かの教理にこだわっていれば、いくら待っても神からの光が差し込むことはない。
ところが、もしよみがえられたキリストのいのちが私たちのうちに躍動するなら、どのような鈍感さもすぐに解消するのである。
「だれにも話してはならない」とあるのに、変貌の山で見たこと、すなわち自分の絶頂の経験を語ってやまない人はあまりにも多い。
たしかに彼らは幻を見、それを証言している。
しかし残念なことに、語ることばと生活が一致していないのだ。
その生活が矛盾しているのは、心のうちで人の子がまだよみがえっていないからである。
よみがえられたキリストのいのちが、あなたに、そして私のうちに形造られるのは、いったいいつのことだろうか。
God Bless You!!
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