2022年4月6日(水)
『キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。』ペテロの手紙第一2章24節
イエスの十字架は、神が罪に下されるさばきとはどういうものかを如実に示している。
キリストの十字架を決して殉教の死と一緒にしてはならない。
十字架は究極の勝利であって、それによって地獄の基までも揺らいだ。
有限の時間においても、永遠の世界においても、イエス・キリストが十字架上で成し遂げられたことより確かで反論不能なものはない。
キリストは全人類が神と正常な関係に戻ることを可能にし、贖いを人が生きていくための土台とされた。
つまり、だれもが神との交わりの中に入れるようにしてくださったのである。
カルバリの十字架は、イエスの身に偶然起きたわけではない。
キリストは死ぬという目的をもって来られたのである。
キリストは「世界の基が据えられたときから、屠られた子羊」なのである。
キリストの受肉は十字架がなければその意味のすべてを失う。
肉において現れた神と罪とされた御子を絶対に切り離してはならない。
受肉されたのは贖いのためであった。
神である方が受肉されたのは、罪を取り除くためであって、自己実現のためではない。
十字架は有限の時間においても、永遠の世界においても中心をなす出来事であり、その両者のすべての難問に対する答えなのである。
カルバリの十字架は、人間の十字架ではなく、神の十字架である。
そのゆえに、人間の経験ではその意味を十分に理解することは不可能である。
この十字架は、神のご性質の現れであり、人類のだれもが個人として神とつながることを可能にする入り口である。
しかし、私たちは十字架のもとに来ても、そこを通過点とはしない。
十字架を入り口とするいのちの中にとどまり続けるのである。
救いの心臓部はイエスの十字架である。
これほどにも救いが容易に得られるのは、神が途方もない犠牲を払ってくださったからである。
カルバリの十字架とは、神と罪人が激突して融合し、いのちへの道が開かれた場所である。
しかし、この激突の痛みをまともに受けてくださったのは神だったのである。
God Bless You!!
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