2022年4月5日(火)

2022年4月5日(火)


『それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという場所に来て、……彼らに言われた。「……ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」』マタイの福音書26章36節、38節


ゲッセマネの苦悩の深さを計り知ることは、私たちには決してできないが、少なくとも誤解する必要はない。
それは、神であり人である一人の御方が、罪と正面から対決された苦悩だったのである。

私たちが自分の経験からゲッセマネについて知りうることは何一つない。
ゲッセマネとカルバリとは二つとない、私たちがいのちに至る門を表しているからである。

イエスがゲッセマネで恐れを覚えたのは十字架にかかって死ぬことではなかった。
ご自分が来られたのは死ぬためである、と主は強調しておられた。
主は、人の子としてこの戦いを無事に通過できないかもしれないことを恐れたのである。

神の御子としてならば問題なく通過できる。
その場合はサタンも手が出せない。
しかし、サタンは全力を傾け、主が単なる孤立した人として切り抜けるように仕向けた。

もし主がそのようにされたら、救い主となる道は絶たれていたことであろう。
ゲッセマネの苦悶が記された箇所を、荒野の誘惑の箇所に照らして読んでみるとよい。

「悪魔は……しばらくの間イエスから離れた」。

ゲッセマネという場所にサタンは戻って来た、とあるが、またしても打ち倒された。
サタンの最終的な猛攻は、ゲッセマネにおける人の子としての主に対するものだったのである。

ゲッセマネの苦悶は、世の救い主になるという神のみこころを実現するために、神の御子が経験されたものであった。
覆いの幕が取り除かれてはっきり見えるようになったのは、私たちが神の子となるために主が払われた代価の大きさである。

主の苦悶こそ、私たちの救いがこれほどにも簡単に得られるものとなった根本的理由なのである。

キリストの十字架は、人の子にとっての勝利であった。
それは主が勝利されたしるしであるにとどまらず、主が人類を救うために勝利されたことのしるしでもあった。
人の子が通られたこの経験によって、人はだれでも、神ご自身の御前に進み出ることができるようになったのである。

God Bless You!!


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