2022年4月26日(火)
『あなたの子……を連れて、……わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。』創世記22章2節
神のみこころをどう解釈するか決めるのは、その人の人格である。
アブラハムは、自分の息子を殺さなければならない、というのが神のご命令であると解釈した。
このような伝統的解釈から脱するには、並外れた試練の痛みを通る以外に方法はなかった。
神がアプラハムの信仰を清めるためには、そうするほかなかったのである。
神が仰せになることに私たちが真心から従うなら、神はご自身にそぐわない因習から私たちを解放してくださる。
これに類した、取り除かれるべき信条はほかにもたくさんある。
たとえば、母親が子どもを過度に愛するので、神は子どもを取り去られる、というような考え方である。
それは悪魔の嘘であり、神の本質をねじ曲げたものである。
私たちがアブラハムのように覚悟を決めて山に登れないようにし、神に関わる、旧来の間違った信条を取り去ることができないようにするためであったら、悪魔は何でもする。
しかし、もし私たちが神に対して真実な態度を保つなら、神は私たちに試練を無事に通らせて、ご自身をもっとよく知ることができるようにしてくださるのである。
神に対するアブラハムの信仰から学ぶべき大事な教訓は、神のためならどんなことでもする用意があった、ということである。
自分は神に従うために存在している、と理解し、どのような信条に逆行しようとも意に介さなかった。
アブラハムは自分の信条を、何が何でも重んじるという人物ではなかった。
もしそうであったなら、イサクを殺していたことであろうし、御使いの声を悪魔の声と言ったに違いない。
これでは狂信者と変わるところがない。
もしあなたが、神に対する真心を失わないでいるなら、神はあらゆる障害を直接乗り越えさせ、神ご自身を知る知識という奥の間に通してくださることであろう。
しかし、そのためには常に、いろいろな信条や因習を放棄するところまで行くことをよしとしなければならない。
試練にあわせてください、と神に願ってはならない。
ペテロのように、「牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と見得を切ってはならない。
アブラハムはそのような表明をしたわけではない。
ただ神に対してどこまでも真実であろうとしただけである。
すると、神はアブラハムの信仰を清めてくださったのである。
God Bless You!!
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