2022年4月24日(日)

2022年4月24日(日)


『霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく……。』ルカの福音書10章20節


主に仕える者にとって、世俗的ということが最大の罠というわけではない。

罪も同様である。
むしろ、現代の宗教的な風潮に呼応して、恥ずかしげもなく、霊的な成功に憧れることこそが罠である。

神に認められること以外に追い求めるものがあってはならない。
「イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て」みもとに行く覚悟が必要である。

奉仕の成果を喜んではならない、とイエスは弟子たちに語られた。
ところが、どうも私たちの大半はそれを喜んでいるようである。

私たちはビジネス的に物事を見て、何人が救われ、何人が罪の聖めにあずかったかを数えて神に感謝する。
そして、すべてがうまくいったと思うのである。

しかし、私たちの働きは、神の恵みによる土台ができたところから始まる。
その働きとは、人々のたましいを救うことではなく、主の弟子とすることなのである。

救いも聖めも、神の一方的な恵みのわざである。
そして、弟子としての私たちの働きは、人々が自分のすべてを神にゆだねるところまで、弟子訓練を施すことである。

神にすべてを献げた一人は、御霊によって霊的に目覚めただけの百人の人生より価値がある。
神に仕える者として、私たちは自分と霊的には同じ人々を生み出していかなければならない。
それこそは、私たちが神に仕える者であることの何よりの証明である。

神は恵みによって、私たちを人生の一定の水準にまで引き上げてくださるが、私たちには、他の人々の中にも同じ水準ができるようにする責任があるのである。

働き人が、キリストとともに神のうちに隠されているいのちにふさわしい生き方をしていなければ、御霊が内住する弟子どころか、腹立たしい暴君になってしまう。
私たちの中に、暴君は多くいて、人々に、また集会という場で指図をする。

イエスならそのような方法で私たちを指図されることは決してない。

主が弟子とはどういう者のことかを教えるときは決まって、「もし」という条件をおつけになった。
強引に義務として押しつけたことは一度もない。
弟子となるかどうかは、本人が決めることなのである。

God Bless You!!


a:31 t:1 y:0