2022年4月23日(土)

2022年4月23日(土)


『私たちは神のために働く同労者であり……。』コリント人への手紙第一3章9節


神のためのどのような働きであろうが、神に心を集中しようとしない働きには警戒が必要である。

自分の働きそのものを礼拝しているクリスチャンの働き人は数知れない。
働き人の関心は、神に心を集中させることにのみ向けられるべきである。

それ以外の周辺的な事柄については、精神的なものであれ、道徳的なものであれ、霊的なものであれ、子どものように、自由であってよいのである。

もちろん、わがままな子どもではなく、礼拝の心を持つ子どもとして神に集中するという、このように厳粛で重要な感覚が身についていない働き人は、ともすると、働きの重みに押し潰されてしまう。

からだにも心にも、そして霊にも余裕がない。
その結果、燃え尽き、潰れることになる。

生きる自由も喜びも見いだせない。
神経も精神も心も、耐えられない重荷に押し潰されるので、神の祝福が行き場を失うのである。

しかし、その逆も真理である。
ひとたび神に自分の心を集中させるなら、日常の生活に余裕が生まれ、すべてが神のご支配の中に置かれる。

自分の働きに対しても、背負うべき責任は何もない。
唯一の責任は、神と常に生きた交わりを持って生活し、神との共同の働きを何ものにも妨げさせないことだけである。

聖化を経験した後に待っているのは、子どものような自由である。
つまり、自分を押さえつけていたものから解放されるのである。

しかし、肝に銘じておかなければならないのは、あなたが解放された理由はただ一つであり、それは「同労者」である神に完全な献身をするため、ということである。

私たちには、自分がどこに遣わされるかを決める権利がない。
また神が私たちを何のために整えておられるのか、先入観を持つこともできない。
神が一切の背後にあってすべてを整えてくださる。

だから、神が私たちをどこに置かれようと、私たちの最大の目標は、その働きに自分のすべてを注ぐことでなければならない。

「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ」

God Bless You!!


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