2022年4月20日(水)

2022年4月20日(水)


『神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。』コリント人への手紙第二、1章20節


イエスがマタイの福音書25章に記録されたタラントのたとえ話をされたのは、私たちが自分の能力を誤って判断することがある、という一種の警告である。

このたとえ話は生まれつきの才能ではなく、五旬節(ペンテコステ)の日に与えられた聖霊の賜物に関するものである。

私たちは霊的な能力を、決して教育や知的能力を基準にして推し量ってはならない。
基準になるのは、神の約束である。

ところが、神が与えたいと思われたほどのものを、私たちが受けていないと感じると、私たちはやがてこのしもべのように神に難癖をつけるようになる。

「あなたは私に与えた権限以上のことを私に期待しておられます。
しかしそれは要求し過ぎというものです。
ですから、あなたから与えられた職務にこれ以上忠実であることはできません」と。

神の全能の御霊が関わる問題であるときに、決して「私にはできません」と言ってはならない。
生来の能力の限界を決して言い訳にしてはならない。
聖霊を受けたのであれば、聖霊のお働きが私たちの中にはっきり現れるのを神が期待されるのは当然である。

このしもべは自分のしたことはことごとく正当化する一方、あらゆる点に関して主人を責めた。
「あなたは、私に与えたものと全く釣り合わない要求をしておられます」と。

神が「まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」と言われたにもかかわらず、私たちはあえて心配に身をやつし、神を不当に責めてきたのではなかったか。

心配とは、まさにこのしもべが言外に込めた思いであった。
「私を困難な状況の中に放置しようとしておられることは分かっています」と。

生来、怠慢な人は常に人の揚げ足をとり、「私は今までまともなチャンスをもらったことがない」と言う。
同様に、霊的に怠慢な人は神のあら捜しをする。

怠慢な人は、常に身勝手で、他者を責めるのである。
霊的なことに関わる私たちの能力は、神の約束に基づくものであることを決して忘れてはならない。

神にはその約束を果たすことがおできになるのだろうか。
私たちの答え方ひとつで、私たちが聖霊を受けたのかどうかが明らかになる。

God Bless You!!


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