2022年4月18日(月)

2022年4月18日(月)


『神は……彼に……呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。』出エジプト記3章4節


神がお語りになっても、私たちの多くはぼんやりしていて、何の返答もしない。
モーセの返答は、自分がどこにいるのか分かっていたことを示している。

準備ができているというのは、神との関係が正しく、今、自分がどこにいるか分かっている、という意味である。

私たちは、自分が行きたい場所を神に伝えるのに躍起になる。
しかし、神に召されて栄誉を獲得するのは、神と神の働きのために日ごろから備えていた人なのである。

私たちは、やがて絶好の機会、世間をあっと言わせるような出来事が到来するはずだ、と考えてその時を待っている。
そしてその時が実際に到来したらすぐに、「私はここにおります」と叫ぶ備えをしている。

イエス・キリストが日の出の勢いにあるときには、私たちもそこにいる。
しかし、目立たない働きにつく備えはできていないのである。

神のために備えができている、というのは、どれほど些細な仕事であれ、またどれほど大きな仕事であれ、喜んで取り組み、その両者に全く区別をつけないということである。

自分がしたいことに選択の余地はないが、神のご計画とあれば、それが何であれ、そこに行って備えるということである。

何かなすべき務めが出てきたら、主が御父の声を聞かれたときのように神の御声に耳を澄ませる。
すると、私たちが主を愛するゆえに、万全の準備ができるのである。
イエス・キリストは、御父がご自分に期待されたとおりのことを私たちも期待しておられる。

キリストは、楽しい務めであれ、卑しい務めであれ、どこにでも、ご自身が望まれるところに私たちを配置できる。
それは、私たちとキリストが、キリストと御父の場合と同じく一つだからである。

「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」

神が思いがけない時に来られてもいいように備えをせよ。
すでに備えができていれば、改めて準備する必要はどこにもない。

神に召されたのに、これから準備を始める、というのは、何という時間の無駄だろう!

燃える柴とは、備えのできた人を囲むすべの象徴である。
それは神ご自身のご臨在によって輝いている。

God Bless You!!


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