2022年4月14日(木)

2022年4月14日(木)


『わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。』マタイの福音書11章29節


「主はその愛する者を訓練し……」。
私たちはなんと些細なことで不平をこぼすことだろう。

私たちが主と交わりを持つことのできるところに、主は導こうとされる。
すると、私たちはうめいて言うのである。
「主よ、どうか私を他の人と同じように扱ってください」と。

イエスは、「わたしのくびきは負いやすいから、わたしの横に来て一緒に引っ張ろう」と、くびきの一方を担ぐように私たちを招いておられる。

あなたは主イエスとそのように一体となっているか。
もしそうであるなら、主の御手の重みを肩に感じて神に感謝するはずである。

「力のない者には勢いを増し加えてくださる」

神は私たちを感傷的な思いから引き出し、私たちの不平不満を賛歌に変えてくださる。
神の力を知るための方法は、イエスのくびきを負い、イエスから学ぶ以外にないのである。

「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」

聖徒たちはどこから喜びを得たらよいのだろうか。
私たちは自分がよく知らない聖徒を見れば、「彼にも彼女も、負うべき重荷が何もないではないか」と思うかもしれない。

目の覆いを取り去ってみよ。
神からの平安と光、そして喜びがそこにあるということは、重荷もまたそこにある証拠なのである。

神が置かれた重石により、ぶどうは搾られ、ぶどう酒が流れ出る。
ところが、私たちのほとんどは、ぶどう酒を見ているだけである。

地上であれ地獄であれ、いかなる権威も、人の霊に住まわれる神の御霊に勝つ力はない。
人の内側の強靭さはそのようにして生まれる。

もしあなたから出てくるものが「ぶどう酒」(wine)ではなく、弱音(whine)だけであるなら、容赦なくそれを追い出さなければならない。
神の力を受けられるのに、弱さに甘んじるというのは、犯罪と言わずして何と言ったらいいだろうか。

God Bless You!!


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