2022年4月11日(月)

2022年4月11日(月)


『私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。』ローマ人への手紙6章5節


《キリストとともに復活にあずかる》

私がイエスとともに十字架につけられたことを示す証拠は、イエスと決定的に類似する点があることである。
イエスの御霊は、私の中に入って来られると、神に対する私の生き方を整理しなおしてくださる。

イエスは復活されたことにより、神のいのちを私に与える権限をお持ちになった。
それゆえに、これからの私の人生経験は、神のいのちを土台にしたものでなければならない。

私は、今の時点でイエスの復活のいのちを持つことができ、そのいのちは、聖さとして自然に現れる。

使徒パウロが書いた書簡のすべてに共通するのは、イエスの死に自分を重ね合わせる、という冷静な決断がなされると、イエスの復活のいのちが、私の人間性の隅々にまで行きめぐる、という考えである。

死ぬべき肉体を持ちながら、神の御子のように生きるには、神の全能の力が必要である。
聖霊を、単なる「来客」として家に迎え入れるだけではすまない。
聖霊は家のどこにでも自由に入って行かれるからである。

「古き人」罪の性質を引き継いだ存在はイエスとともに死ななければならない、と私がひとたび決断するだけで、聖霊は私の中に満ちてくださる。

聖霊はあらゆる責任を引き受けてくださるので、私の役割は、光の中を歩み、聖霊が示されるすべてのことに従うだけである。

罪に関わるこの決断を下すなら、自分が「罪に対して死んだ者であると認める」ことは容易である。
自分の中にイエスのいのちがいつもあることが分かるからである。

人類が一つの種類であるように、聖潔の種類も一つしかない。
それはイエスの聖さである。
そのイエスの聖さが私に賜物として与えられている。

神は御子の聖さを私の中に組み込まれた。
その結果、私は今や新しい霊的秩序に属する者となったのである。

God Bless You!!


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