2022年4月10日(日)

2022年4月10日(日)


『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。』ローマ人への手紙6章6節


《キリストとともに十字架につけられる》

私は罪に関してこのような決断を下しただろうか。
罪は、私の中で息の根を止められなければならない、と……。
このような、罪に対する冷静な決断に達するまでには、ずいぶん時間がかかるものである。

しかし、イエスが世の罪のために死んでくださったように、私の中においても罪は死ななければならない——制限したり、押さえつけたり、対抗したりするのではなく、十字架につけられなければならない、と決断を下すなら、それは私の人生の一大転機となる。

この決断に至らせてくれるのは、自分以外にはだれもいない。
私たちはまじめに、また信仰深く、同意するかもしれない。
しかし、私たちに必要なのは、パウロがこの箇所で促しているような決断を下すことなのである。

自ら決断して、神とだけ過ごす時間を取り、冷静な決断を下して、こう言おう。
「主よ、私の中で罪が死んだと分かるまで、私をあなたとともに葬ってください」と。

このようにして、内在する罪を死に渡す冷静な決断をすることだ。
これはパウロにとって、神が将来なしてくださることではなく、今行うべき根本的で明確な経験であった。

私には、罪の性質、つまり神の御霊に逆らうものが何であるか分かるまで、神の御霊に自分の中を探っていただく用意があるだろうか。
もしあるなら、神が罪の性質に下される判断に同意して、それをイエスとともに葬ることに私は同意するだろうか。

神の前に自分がどのような意志決定をするかという問題に根本から対処しないかぎり、私は自分を「罪に対して死んだ者であると認める」ことはできない。

キリストとともに十字架につけられ、自分の血肉にはキリストのいのち以外は何も残っていない、という栄光の特権に私はあずかっただろうか。

「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。

God Bless You!!


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