2022年3月5日(土)
『自分の競争を、喜びをもって走り終え、主イエスから受けた……任務を全うできるなら、……。』使徒の働き20章24節
喜びとは、自分が創造され新生した目的を、完全に果たしたことから来るものであり、決して何かを首尾よく成し遂げることによるものではない。
私たちの主が経験された喜びも、御父によって遣わされた目的を行うことによるものだった。
その主がこう仰せられる。
「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と。
私は主から何か任務を授けられただろうか。
もし授けられたなら、それに忠実でなければならない。
私のいのちは、その任務を成し遂げるという目的があって初めて価値がある、と考えるべきである。
イエスからこのように言っていただく満足を思ってみるがよい。
「よくやった。良い忠実なしもべだ」と。
それは主があなたを遣わした目的を、あなたが成し遂げたと分かる時だからである。
私たちはみなそれぞれの人生において、自分の適所を見つけなければならない。
霊的には、主から任務を受けたとき、それが見つかるのである。
そのためには、ィエスと親密な交わりを持ち、自分の救い主という以上の御方として主を知らなければならない。
「彼がわたしのためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう」ということばに込められた衝撃を、私たちも受ける覚悟がなければならない。
「あなたはわたしを愛していますか」に続いて、主は「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。
主は奉仕を選択できるものとして示してはおられない。
主は与えた任務に対する揺るぎない忠誠心とともに、私たちが神と親密に交わって分かったことに対する忠実さだけを求めておられる。
もし主イエスから任命を受けた経験があるなら、人からの要請と主の召命とは決して同義ではないと分かることであろう。
人からの要請とは、主の召命を実行する一つの機会にすぎない。
召命とは、主との生きた交わりの中で受けた任務に忠実であることである。
私たちが関わるのを待っているいろいろな奉仕があるわけではない。
むしろ神があなたを召された任務と異なるものであれば、その要請は無視しなければならない場合もあるのである。
God Bless You!!
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