2022年3月31日(木)

2022年3月31日(木)


『だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。』ヨハネの手紙第一5章16節


神の御霊が私たちの中でどのように働いておられるかに注意していないと、私たちは霊的な偽善者になっていく。
他の人が失敗するのを見ると、私たちは自分の洞察を、人々をとりなすきっかけとしないで、嘲りと批判に変えてしまう。

そのように気づけたのは、私たちの理性が研ぎ澄まされていたからではなく、御霊が直接、人々の心の中にあることを教えてくださったからであるのに、その洞察の源に無頓着でいると、他者に批判的になり、神が言っておられることを忘れてしまうのである。

神は言われる。
「神に求めなさい。
そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。
これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です」と。

私たちは、神を礼拝するより先に、あらんかぎりの時間を使って他の人を正そうとする偽善者にならないように、注意しなければならない。

神が聖徒としての私たちに課せられる責任の中でも、特に微妙でとらえがたいものの一つは、他の人を知るための識別力である。
神が隠されている事柄を明らかにしてくださるのは、私たちが神の前で人々の重荷を引き受け、その人々に対するキリストの思いが私たちのうちに形成されるためである。

この線に沿って私たちがとりなすなら、神は「死に至らない罪を犯している人にいのちを与える」と約束しておられる。

私たちが神を自分の思いの中に招き入れる、ということではなく、私たちがとりなす人々に関する神の御思いを、神が私たちに伝達できるレベルまで、私たちが自分を目覚めさせる、ということである。

イエス・キリストは、ご自身が経験されたたましいの産みの苦しみを、私たちの中に見ておられるだろうか。
私たちがキリストと同一化され、目を覚まし、私たちがとりなす人々をキリストがどう見ておられるかが分かって、初めてそれができる。

願わくは、私たちが全身全霊でとりなすとはどういうことかを知り、イエス・キリストが、とりなし手としての私たちに心から満足してくださるように。

God Bless You!!


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