2022年3月30日(水)

2022年3月30日(水)


『主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに唖然とされた。』イザヤ書59章16節


私たちの多くが祈るのをやめ、神に対して頑なになるのは、祈りに対して感傷的な興味しかないためである。

祈っている、といえば聞こえは良い。
祈りは有益であり、祈れば心は静まり、精神は高揚すると書かれている本を私たちは読む。

ところが、神は祈りに対するこのような考えに唖然とされる、とイザヤは言う。

礼拝ととりなしは一体である。
一方がなければ他方はない。

とりなしとは、私たちの祈りの対象とする人がキリストの心と思いを持つことができるように、気持ちを奮い立たせることである。

ところが私たちは、神を礼拝するよりむしろ、祈りはどのような結果を生み出すべきか、という口上を神に述べ立てるのである。

「神よ、あなたはいったいどのようにしてそれをしてくださるのでしょう」と言う私たちは、はたして神を礼拝しているのだろうか、それとも神と言い争いをしているのだろうか。
これこそは、私たちが礼拝などしていない何よりの証拠である。

神を見失ってしまうと、私たちは頑なになり、ひとりよがりになる。
私たちは神の御座に向かって嘆願を次から次へと投げつけ、神にしてほしいことを指図する。
私たちは神を礼拝していないだけでなく、キリストの心が自分の心になるように求めてもいない。

私たちは、自らを奮い立たせて神をとらえようとし、また祈りの対象とする人々に対して、神がどのような思いを持っておられるかを知ろうとしているだろうか。

私たちは神との聖なる関係の中に生きているだろうか。
それとも、頑なで独善的になっているだろうか。

しっかりとりなす人がだれもいない、と言うなら、あなたがとりなし手になることだ。
神を礼拝し、神との聖なる関係の中に生き、とりなしという本当に骨の折れる働きに加わることだ。

それはあなたの力のすべてを注ぎ込む必要のある働きである。
しかし、その働きに誘惑は一つもない。

福音を説くことにすら、誘惑がある。
しかし、とりなしの祈りは、誘惑と全く無縁なのである。

God Bless You!!


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